田沼意次が財政再建の切り札としていた「蝦夷地調査」
蔦重をめぐる人物とキーワード⑮
■国家戦略として重視されていた蝦夷地開発
田沼意次が主導した蝦夷地調査は、幕府財政再建と国防強化という二つの課題に対応する国家戦略だった。幕府の財政は当時すでに逼迫しており、さらにロシアの南下政策が現実的な脅威として迫っていた。
契機となったのは、1783(天明3)年に仙台藩の医師・工藤平助(くどうへいすけ)が著した『赤蝦夷風説考』という報告書が幕府に提出されたことである。工藤は蝦夷地の資源開発と防備体制の必要性を説き、交易の可能性にも触れながら、ロシアの南下政策への備えを主張していた。田沼はこの提言に着目し、蝦夷地の地理や資源、住民の暮らしの実態を把握する調査に乗り出した。
蝦夷地とは、現在の北海道を中心とする地域を指す。当時は幕府の直接統治が及んでおらず、詳細な実情は把握されていなかった。ただし、金や銅などの鉱物資源に加え、ニシンや昆布といった海産物が豊富にあると見込まれていた。
田沼はこれらの資源を幕府の財政再建の柱としつつ、ロシアの南下に対抗するための国防上の要地として蝦夷地を位置づけた。これは、内政と外交の両面を見据えた戦略的構想だった。
1785(天明5)年、幕府は最上徳内(もがみとくない)らを含む調査隊を派遣。国後(くなしり)・択捉(えとろふ)などの島々を含む東蝦夷と、日本海側の西蝦夷に分かれて、地理、資源、アイヌの生活、ロシア船の動向などを詳細に調査した。特にロシア人との接触状況や航行ルートの把握は、重要な調査項目だった。
調査結果を受け、田沼は蝦夷地の開発計画に着手する。しかし翌1786(天明6)年、政変によって田沼は失脚。老中を罷免され、計画は棚上げとなった。
とはいえ、調査は無駄にならなかった。蝦夷地の戦略的価値が幕府内で共有され、後の松平定信(さだのぶ)による直轄化政策へとつながっていく。定信は田沼の調査結果を踏まえつつ、開発よりも防備に重きを置いた方針を採り、東蝦夷地の直轄化を進めた。
結果として、田沼の政策的先見性は、その後の蝦夷地政策の重要な基盤となったといえる。
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